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崔貴妃 (宋) 貴妃崔氏(きひ さいし、1091年 -?)は、北宋徽宗の側室。 == 生涯 == 寵愛を受け、平昌郡君、才人、美人、婕妤となり、嬪、淑妃に進み、貴妃にいたった。1人の皇子と5人の帝姫を産んだ。 劉安妃(明節皇后)が後宮に入ると、この新しい寵姫に寵愛を奪われた。さらに、唯一の男子も夭折した。崔氏は、寵愛が戻ることと男子を再び産むことを願い、巫師の劉康孫に呪法を行わせた。宣和3年4月2日(1121年4月27日)、劉氏は急死した。徽宗はその死を悼み、かつ不審を抱いた。劉氏の葬儀で、鄭皇后や他の寵妃らは徽宗に媚を売って泣き叫んだが、崔氏は悲しむ様子を見せなかった。崔氏は徽宗の怒りを買い、劉氏の呪殺を疑われたが、崔氏は怒って否認した。結局、7月3日に崔氏は庶人に落とされて別宅に置かれ、呪法を行った劉康孫は斬刑、崔氏の兄ら一族も免職された。 靖康の変の際、崔氏はそうした状況であったものの、徽宗や欽宗らと共に金に連行された。以後の動静は不明であるが、『三朝北盟会編』(1162年完成)によると、同書の頃まで金で健在であったという。
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